喜屋武の横顔

「きゃん」は「ちゃん」?!

 「喜屋武」の読み方は「きゃん」だが、地元では「ちゃん」と言うことがある。喜屋武を訪ねてきた人が近くにいた子供に「きゃんはこの辺り?」と聞いたけれど、子供たちは「きゃん? 聞いたことない」と答えたという話が残っている。

むすまい

 

 喜屋武は「むすまい」と自称する。「むすまい」というのは「団結」とか「力を合わせて助けあう」という意味だ。喜屋武を「むすまいの村」と呼んだりする。昔から結束が強い集落なのである。

 そういう背景があるせいか、「喜屋武人の性格は没個性的で集団性が極めて強い」と言われる。陸上競技でも個人種目は弱いが、チームプレーのリレーは強いといった塩梅だ。

 このサイトのURLの由来はまさしく「むすまい」である。

歴史

 喜屋武で発掘された土器を測定した結果、喜屋武に600年ほど前から人が住んでいたことが確認されている。

 では、綱引きはいつから始まったのか。明確な歴史は不明だ。そこで、「分からないくらい古い」とされている。

喜屋武と沖縄戦

 悲惨な地上戦が繰り広げられ、住民が多数亡くなった沖縄戦――。その舞台の1つが喜屋武である。南風原陸軍病院が喜屋武にあったのだ。

 1945年3月23日夜、米軍の沖縄上陸作戦が始まると同時に、沖縄師範女子部と県立一高女の寮生219人が教師18人に引率され、この南風原陸軍病院に動員された。ここで「ひめゆり学徒隊」として<筆紙に尽くしがたい沖縄戦に巻き込まれてゆく。




 以上の出典は『上筋から』(喜屋武ふるさと再生区民の会・発行)と『公式ガイドブックひめゆり平和祈念資料館』(ひめゆり平和祈念資料館)。

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